詠まれた和歌の真意を理解するためには、その背景を知る必要があります。そこで、詠まれた方々のエピソードを、参考資料として、次に、御紹介いたします。
私の娘の文枝は、当時、県立広島第二高等女学校の2年生でした。私は、原爆が投下された翌日の7日の早朝から、娘の安否をたずねまわり、午後2時頃に、やっと、娘の学校の校舎に、たどり着きました。
すぐに娘の安否をたずねますと、作法室に案内され、
「これが、本地さんです。」
と、指さされた生徒を見ますと、ひどいけがや火傷をして横たわっており、まったく、わが子の面影はなく、これが自分の娘とは、信じられませんでした。
でも、私は、おそるおそる
「文枝ちゃんなの?」
と、呼んでみました。
すると、アゝ、どうでしょう。「お…母…ちゃ…ん!」
と、か細い声で、呼び返したでは、ありませんか。
苦しいながらも、精一杯、甘えようとするわが子に、私は、どうすることもできず、
「変った姿になったね。」
と、いって、狂い泣きするばかりでした。
その後、娘は、私が手助けして御不浄を済ませ、水筒のお茶をおいしそうに飲みほしました。
けれども、やっと親子がめぐり会えたというのに、それからわずか14時間後の8月8日の午前4時に、
「お母ちゃん、…お…母…ちゃ…ん!」
と、呼ぶ声も、哀れ、さびしく、永遠に帰らぬ旅に先立ってしまったのでした。
私は、御幸橋の下手で被爆し、顔や手に火傷をしました。
当時、娘の幸子は、県立広島第一高等女学校の教諭として奉職中でしたので、私は、娘の安否を気づかって、7日、8日と、市内をさがしましたが、どうしても見つかりませんでした。
ところが、11日になって、やっと、郷里の世羅郡に帰ってきましたので、親子で互いに喜び合いました。
朝礼の時に被爆し、倒壊した校舎の下敷きになったといっていましたが、見たところ、外傷は、ありませんでした。
しかし、娘は、実は、多量の放射能を浴びていたのです。下痢、42度の高熱、けいれんの発作に苦しんでいましたが、
「私は、死ぬことが1番、恐ろしく、いやでしたが、今は、安心して逝きます。さようなら。」
と、けなげに、鉛筆で書き遺して、8月17日に永眠いたしました。
私は、墓碑に
いたわしや
戦のために 散りし子は
間近く開く 花の蕾を 母心
と刻み、今は亡き娘の回向をしております。
当時、私の長男の敏彦は、広島第一工業学校の3年生で、舟入本町の富国製油に動員されていました。この動員先に向かっている途中、「鷹の橋」停留所の電車の中で被爆しました。
8日の晩に、疎開先の西条の家に帰ってきましたので、
「よく生きて帰ってこられたね。」
と、母と子で互いに喜び合いましたが、その後、苦しんで、8月21日の夜、ついに永遠の眠りにつきました。
現在、私は、戦争は、絶対しては、いけないこと、原爆の恐さ、平和の大切さを、若い人達によく知ってもらいたいと思い、原爆の語り部として、頑張っています。